事実とは、実際に起きた出来事のことで、具体的であり個別的な出来事を言います。真実とは、その事実に対する解釈であり、抽象的であり普遍的な捉え方をしたものを言います。両者の決定的な違いは、外形的な照合であるか、内容的な照合であるかです。しかし、これだけの説明であれば、説明不足で納得は難しいでしょう。しかも、両者は混同されることも多く、厳格な区別は難しいです。
『事実』
事実は、実際に起きた出来事か否かを問題とし、真実は、実際に起きた出来事とされる事柄に対する解釈や説明が真か否かを問題とします。
事実は、客観的な物理的現象だから、本来的に一つしかないはずで、真実は、主観的な解釈を適度に含み、立場によって複数の異なる認識に分かれるであろうものです。その意味で、「真実は一つしかない」とは言い切れないはずですが、そのように表現することが現にあります。そうなるのは、日常的用法では、厳密に両者の区別をしていないからです。
「事実は小説よりも奇なり」という言葉があるように、それは、小説のように虚構や空想でないことを意味し、現実世界の中で実際に起きた出来事それ自体の素朴な認識を言います。それは、出来事を単純素朴に外形を表現したものでしかなく、必ずしも内容的に本質を選択的に抽出しているわけではありません。
それは、基礎的なものであり初歩的なものであって、機械的に認識したものであって、比喩的に言えば、写真に写したものです。真実は、写真に写せないものを含みます。物事の本質は、目的依存の部分があり、形のないものであり抽象的なものですから、機械的に取り出したり投影したりできません。
『真実』
真実は、人それぞれによる解釈のことですので、一つとは限らず、誰もが納得し得る正しい解釈を一つに確定できません。ただし、完全に間違った解釈や大きく歪んだ解釈なら、それは違うと否定できます。
「真実」の一番の特徴は、「事実」と違って、奥に隠れているものを、鋭く見抜く必要があることです。事実は、現象として外面に現れていますが、真実は、現象として見える表面のそのまた奥の内部に、物事の本質として分かりにくい形で隠れています。
それは、邪魔になるノイズを掻き分けながら探し求めるものであって、素直に表面に出ていません。しかもそれは、ある程度の抽象性を有しているため、目に見えるものではなく、具体的な姿を見て、解釈によって抽象化しなければならないのです。この抽象化の過程で、目的の違いや視点の違いや基準の違いによって、人によって違いが生じます。それは、普通、微妙な違いにとどまりますが、時として大きく違う結果になる場合もあります。解釈に違いが生じるのは普通のことですので、そのこと自体は驚くに値しません。
『事実』と『真実』の使い分け例
「それは事実上、失敗した」とは言えますが、「それは真実上、失敗した」とは言えません。失敗は、具体的な現実世界の中で起きることなので、事実と強く結びつきますが、抽象的な観念世界とは結びつきにくいのです。
「真実に目覚める」とは言えますが、「事実に目覚める」では多少の違和感があります。真実は、奥に隠れて見えないものであるため、洞察しないことには、見えてきません。事実は、外見的表面的に見えるものなので、内面的深層的な真実に比べて言えば、「目覚める」ほどのものではありません。だから、どこか違和感があるのです。
「事実に即して真実を推理する」とは言えますが、「真実に即して事実を推理する」ではどこか変です。具体的事実として生じた現象の外形や表面ではなく、その奥底に真実が隠されているのであって、事実から真実を推理することは普通のことですが、その逆となると、普通のことではないため、違和感を感じてしまいます。真実から事実を逆推理することも、特殊な場合にはあるかも知れませんが、普通のことではありません。
まとめ
真実の反対は虚偽であり、事実の反対は空想です。このように反対語を考え、それぞれを対比させることでも、その違いが浮き上がって来ます。真実は、誠か嘘かを問うもので、正しいか間違っているかを問います。事実は、現実か仮想かを問うもので、現実世界で有ったことか無かったことかを問います。前者は抽象的な真偽論であり、後者は具体的な有無論です。